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2020年3月14日土曜日

山奥の相棒ぴよ子が天に召されました

山奥の相棒ぴよ子が天に召されました


この山奥に住むようになって一年が経ったころ、ここでの一人暮らしに慣れた時分、烏骨鶏のぴよ子を部屋の中で飼い始めました。



それはもう、可愛くて可愛くて、そしてものすごい甘えん坊で、寝るとき以外はほぼ終日、いつも僕の半径50cm以内にいるような奴でした。



子供のような、相棒のような、そんな存在。いつもいつも癒され励まされ、元気をもらっておりました。



そんなぴよ子が一昨日、急に天に召されました。体調が悪くなったり良くなったりを繰り返すことは何度かあったのですが、あまりにも突然のことでした。



最期は僕の腕の中で息を引き取りました。クウクウと苦しそうな息遣いがスーとなって。涙が、涙か止まりませんでした。何時間も何時間も。



僕はぴよ子にものすごく依存して生きていました。山奥に一人で生きてはいますが、寂しさという感覚を全く覚えることがなかったのも、ひとつはぴよ子という存在のお陰です。



外から帰ってきたとき、「コケコッコー」という大きな雄叫びで出迎えてくれました。



かごから出してあげると、烏骨鶏特有の小刻みなカズダンスのステップで喜びを表してくれました。



ペットというよりは相棒。僕の中では完全に擬人化していました。



そんなぴよ子が突然逝ってしまって、泣いて泣いて泣き続けたあげく、悲しみというものを通り越してしまって、「絶望」という状態に落ちいりました。



もしかしたら、僕はもう山奥のこの家では暮らせないないかもしれない。ぴよ子のいないこの家では。そんな思いが襲ってきました。



ペットロスという言葉はよく耳にしますが、そういう定型的な言葉では言い表せない耐え難い思い。



もうダメだ。涙も止まらず思考は絶望の淵をさまよい続け、見れば見るほどに、どうしようもない気持ちにさせられるぴよ子の亡骸。



ずっと部屋に一緒にいることもできず、当日にお墓を作り埋葬しました。僕が毎日必ず通る、よく見える庭の入口に。



数時間絶望の淵を彷徨いましたが、ぴよ子を譲ってくれた喫茶店のママさんには連絡をいれておくべきだと思い、Lineをしました。



ぴよ子が逝ってしまったことと、自分自身が絶望の淵にあって何も考えられないでいること。そんなことを短文で。



ママさんは案の定、励ましてくれました。



そして更に、ママさんの家で飼っている烏骨鶏を譲ろうかとも提案してくれました。



普通ならここで、お心お気遣いだけを頂くはずです。ですが、僕はもう過去に経験したことのない、この空虚感、絶望感に耐えられなくなってしまっていて、ママさんにすがらして頂くことにしたのでした。



ぴよ子が亡くなってすぐにまた別の烏骨鶏を家に招くなんて、なんて不謹慎なのだと思うかもしれません。



でも自分自身も倒れてしまいそうなくらいボロボロで、夜が来て朝がきて、また夜がきて朝がきて....、どんどんその底の底の方へ引きずりこまれそうで。



今ここに雄雌、つがいの2羽の烏骨鶏がいてくれています。物静かな2羽の烏骨鶏ちゃん達は、自分から僕にすり寄ることは、まだありません。でもぴよ子がいなくなり、ボロボロになっている自分にとって、今、家にいてくれるだけで、とてもありいがたい思いです。



ここで約1年間一緒に過ごしてくれたぴよ子の存在は僕の中から消えることはないと思います。こんな内容の記事を書いていると、また大粒の涙が零れ落ちてきます。



本当にありがとう。ぴよ子。感謝しきれない気持ちだよ。ぴよ子。ぴよ子。ぴよ子。


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山奥の春は、やはり、わらびが美味しい


2019年7月9日火曜日

母親が倒れ東京へ戻りました

母親が倒れ東京へ戻りました



日曜日の午前0時ころ、東京の母親が救急で病院へ運ばれました。午後になって連絡を受け伊豆の山奥から急遽東京の豊洲へ向かったのですが夕刻の面会時間には間に合わず、その日は実家に直行となりました。ICUなので中に入れる時間が厳しいようなのです。




倒れた母親ももちろん心配なのですが、夜中から病院にいて一睡もしていない父親の方もかなり心配でした。ただ父親に会ってみるといつもと変わらない様子。こちらは一安心しました。



僕はうつ病で会社を退職後、伊豆の格安の別荘を見つけ住み始めてしまったわけなのですが、伊豆を選んだの理由のひとつに東京の実家に3時間弱で行けるという点がありました。



沖縄でも九州でも奄美大島でもどこでもいいやと一時期考えたことがあったのですが、結局のところ高齢の両親に何かあった時、いや何もなくても会いにいける距離にいるということが大切だと感じていました。そしてそれは正解だったと今も思っています。



ただ東京には5つ年の離れた兄貴がいるので全面的に頼ってしまっているところはあるのですが...。



母親の病状

翌日、まだ意識の戻っていない母親に面会に行ってきました。敗血症と片肺への穴、腎臓機能低下が主な病名だそうです。人工呼吸器を付けられている状態で鎮静剤を投与し続ける必要があるとのことで、意識はまだ当面戻らないとのことでした。



7月6日は僕の誕生日だったのですが、誕生日というのは自分を祝ってもらうものではなく、生んでくれた親に感謝をする日だということをこの年になって知ったばかりです。なんとも情けないことなのですが。





病状がこの後どうなるのかは分かりませんが、今は一旦伊豆の山奥へ戻ってっきています。意識が戻るか状態が悪化するかわかりませんが、何か変化があれば今度は数日滞在できる準備をして東京へ行こうと思っています。おそらく来週。



誰も歳には勝てません。どんなに強靭な人でも80歳を超えれば足腰も気力も、そして臓器類も弱ってくるのだは普通のことだとも思います。でも母親にはまだまだ生きてもらいたいと切に願っています。



この山奥ののんびりスローライフを、畑を、デッキを、母親にも見せてあげたいと思ってます。今までに何度も何度も誘ってきましたが、そのたびに、いつかね、と言われ連れてこれていません。


必ず元の元気な母親に戻って、親孝行をさせてください。お願いします。




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夏の海、しかし首を痛めて安静状態


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のんびり暮らすスローライフ


2018年10月2日火曜日

田舎暮らし、移住での村八分の現実

田舎暮らし、移住での村八分


ツィツターのフォロワーさんに何人か、この悲惨な状態、田舎暮らしでの村八分を経験された方が何名かいます。移住後、それは今も現在進行形という恐ろしい話。



自分自身の直接の体験ではないですが、僕自身も深く考えさせられましたので、その内の一例を紹介させて頂こうと思います。



テレビでは田舎への移住に対して、まるで楽園のようなイメージで番組が構成されています。けれど、楽園の陰に悲痛な思いをされている方が大勢いるということも、事実です。



テレビは視聴者を楽しませるものです。あまりうのみにしない方がよいかと思います。


古民家を手にいれて固定費を削減

市内のアパートに暮らしていた30代の男性の方です。毎月発生するアパート代がもったいない。これをどうにかできないかと考えぬいた末、田舎に安い古民家を見つけ昨年の11月に手に入れたそうです。彼のBライフ生活の始まりでした。



古民家の購入代金は教えてもらっていないですが、話の流れから推測すると200万円代かと思われます。アパート代が4万円だとすると4年間分程度の賃貸料と同額で持ち家を持ったことになります。


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これからは悠々自適に自然と共に暮らしていくと意気揚々でした。


畑を耕し家を補修

移住後は家を補修、リフォームしながら時々バイト。そんな生活を送っていた彼の元にある日一通の手紙が届いたそうです。その文面は


 「お前はこの村から出て行け」


だそう....。


文章が短いだけにぞっとしせんか。何か理由めいたことが書いてあれば納得するかもしれませんし、自身が改めるところもあるかもしれません。しかし、そこにはそれ以外に何も書いていない。


書いていない故の怖さ。これはもう精神的には恫喝のレベル。


この手紙を受け取る以前に村の人達との交流はなかったそうです。誰かと口論になったこともなく、手に入れた古民家でひっそりと暮らし始めたころ。



村八分は誰でもよい

彼個人に全く問題はないはずなのです。上述した通りまだ地域とは交流がなかったのですから。


匿名で恫喝もどきのメッセージを送るという行為の裏には、この個人に改善を要求するレベルのものではなく、もう誰であってもよそ者は村八分にする、という、より恐ろしいその場所の意思のようなものを感じざるをえません。


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この後、彼は自身の生活の辛さを頻繁にツィートするようになりました。抽象的な内容でしたが怖さ、辛さが伝わってきました。それでも努力し続け、村の運動会に参加したり畑の手伝いをしたりと奮闘していたようです。



しかしそれから2,3ヶ月後、ついにツィツターからも姿を消してしまいした。過去のツィートも全て削除。呟けば呟くほど後悔の念が押し寄せてきたのではないかと、想像ですがそう感じます。



この後どういう方向へ進んだのかはわかりませんが、村に移住した際に起こりうることの恐ろしさは、ここまでで十分理解できたかと思います。



戦ってみる

若さもあり頭脳もあり行動力もあるのですから、そんな村人は一喝し、戦ってみればよいではないか、そんな気もします。しかし元々原因がどこにもないのですから、何を言ったところでおそらくムダなのだと思います。



田舎へ移住した方の問題はなかなか表に出てきません。テレビで放映されることも、めったにありません。



これだけSNSが発達していても、その所在や実名が明らかになることはレアケースなのです。何故なら、移住してしまったら、それからもそこに住み続けなければならないのですから。



田舎への移住
Bライフに憧れての移住であっても村八分のような問題に遭遇したらまた移住できるような身軽さを持っておくことも必要なのかもしれません。




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足裏の痛いツボを刺激する健康法、足裏痛てーよ



Bライフ田舎暮らしブログ

2017年12月11日月曜日

離婚届けを役所に提出してきました

離婚届けを役所に提出してきました



今日、離婚届を役所に提出してきました。うつ病で休職し始めたのは約4年前、別居を始めたのは1年4ヶ月前になります。そして離婚を決めたのは4ヶ月前のことです。


もう決めていたことなので、どうってことないと思っていましたが、実際に離婚届を出してみると、後からボディーブローのようにジワジワときますね、やはり。



離婚した元妻とは大学生のころからの付き合いです。人生の半分以上、そんな長い間一緒にいたわけです。やはり、いろいろな事が思い出されて少し悲しい気持ちにはなります。



このモヤモヤは何なのだぁ~。正解なのか不正解なのか、戻りたいのか戻りたくないのか。正直なところ良く分からないのですが、選択肢はやはり無かったのだという気はします。



ですので運命とか宿命とか、そんなところをとりあえず結論にしておこうかと思います。何を言っても、多分もう元には戻れません。ここは潔くありたいところです。離婚に至った原因は100%、僕の方にありますから。



長引くうつ病での休職、そして退職。勝手な言動、勝手な行動。そんな事をずっと繰り返してきた感じですので。トホホ。本当にトホホな自分です。


うつ病、休職、退職、隠居、Bライフ.....


うつ病で休職、退職、隠居、Bライフ生活。こんな道程を歩んでいるわけですが、隠居生活を楽しく夢のあるもにしていくべく、これから前向きに怠惰な生活を送っていこうと思います。お金持ちになって見返してやろうなどとは微塵も思ってません



良いのです。すべてはその時その時。働きたいと思えば働くだろうし、怠惰な生活を続けたいと思えばそうします。先のことはよくわかりませんが、一応、今日という日でひとつの区切りがついたということ。



身軽になった分、これからは生きたいように生きてみようと思います。



ただ僕らには二人の息子がいまして親権は僕の方が持つことになりました。と言っても22歳と20歳ですのでもうほとんど手は掛りません。



長男は来年就職、次男は再来年。本当にあと少しだけです。



しかし離婚というのは意外にあっさりしているなぁというのも正直なところではあります。役所へ紙一枚提出しただけなのですからね。これだけで完了。



年金分割


離婚届けを出した後も、まだ少々手続きが残っています。年金分割の手続きをしなくてはなりません。



結婚していた期間に支払った厚生年金の分は50:50に分割するというのが現在の社会的な仕組みのようです。ただ放っておいては分割されないので、自分達で年金事務所に出向き、分割の手続きが必要になります。手続きしたくないですが.....。



ちなみにこの年金分割の手続きですが、しらばっくれて2年ほど逃亡を続ける時効になるらしいですよ(笑)。そんな事はしませんが。



さて、これで老後も貧困生活が約束されました。でもなんとか生きていけるように工夫していきますよ~。大丈夫。大丈夫。



ここでちょっと、離婚に関してツイッターで流れていた少し励まされる言葉があったので紹介しておきたいと思います。


”離婚した人は「結婚に失敗した」んじゃなくて「離婚に成功した」んですよ。成功者なんですよ。”


いいですね、この捉え方。僕は成功者なのだ。確かにそんな気もする。今まで結構キツかったからなぁ。解放という一点を見れば本当に素晴らしいことのように思えてきます。


それに3組に1組は離婚する時代。こんなに長い間よくもったものだとも思わなくもないです。更に更に、生涯未婚率は男の人で4人に一人。もはや結婚が当たり前という時代でもないような気がします。と、自分を正当化してっみたりします。



折角得た自由な第二の人生


離婚届けを出したばかりではありますが、明日からまた一週間、伊豆の別荘に行ってくることにします。寒い時期は辛いのですが、Bライフの予行練習、そして気分転換。


折角得た自由な第二の人生をどうやって使っていこうか、山奥の別荘で真剣に考えてこようと思います。上述していますが、僕はお金持ちなりたいなどという願望は全く持っていません。


どういう風に生きていけば、無理なく自由に豊かな心で生きていけるか。


そんな事を考えてこようと思っています。
では行ってくるとします。




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山奥暮らしの準備、携帯とタイヤ



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