2019年2月3日日曜日

伊豆の別荘地の評判

伊豆の別荘地の評判


伊豆は激安から高級まで多様な別荘地が多いということで評判ですが、その数には本当に驚かされます。


熱海から伊藤、そして三島、トライアングルの中だけでも30近い別荘地があります。伊藤の先は天城、下田と続くのですが、南のほうまでびっしりと別荘地が続いています。



僕も一度、熱川方面にある別荘地は視察に行ったことがあるのですが、そこはかなりの廃墟でした。激安物件も多いのですが、道路は荒れ放題。水道問題でいつ水が止まるかも分からないとか。



そんなこともあって熱海周辺の別荘地を選んだのですが、標高400メートルの位置にあっても意外と冬も大丈夫だったりします。



気温はもちろん2,3℃低くなりますが、真冬の一番寒いときでもマイナスになるのは数日間のみ。



昨日、伊豆山奥の別荘へ移住してきてから始めて霜柱を見ました。でもそれは本当に小さな霜柱でした。暖かいという評判はウソではないかも。



冬季うつ対策で部屋の温度を暖かく保っているからではあるのですが、真冬も大丈夫そうです。



寝室を断熱剤で保温した話はこちら→

洋室で暖かい部屋に大改造




おそらく以前住んでいた東京の八王子の方が気温は低いと思われます。25年ほど住んでいましたが、冬場は会社にいくのに朝は手袋と耳当てが必需品でした。歩道も常に凍結していたと思います。



ここは標高400メートル。平地よりも2℃ほど気温が低いはずです。でも大丈夫。最低気温が0℃以下になったのはまだ数日しかありません。そして、このまま温暖化が進んでくれたらなぁなどと無責任なことを思っております。



標高に関して少し付け加えておくと、100メートル上がる毎に0.6℃温度が下がっていくようです。ですので例えば標高1500メートルの山奥だと、0.6℃x15 = 8℃ 気温が下がることになります。




平地の最低気温が5℃程度ある温暖な地域でも、1500メートルの山奥になれば -3℃ になります。ですので標高は重要なファクターになるのです。



山奥に住もうと考えている方がいれば、平地の気温からどれくらいの標高までなら自分が暮らしていけそうかということは考慮した方が良いと思います。



この点で伊豆の山奥の別荘。おススメですよ。あっ!でも熱川方面だけは辞めておいた方がよいです。別荘視察はこちらの記事。→

退職後の田舎暮らし移住先隠居別荘探し第二弾




夏の温暖化


昨年の夏場は40℃近く気温が上がったことが何日もありましたが、その時も伊豆って最高ぉ~という感じでした。温暖化は地球規模の環境破壊にも繋がるとのことですが、やはり暑い夏は大歓迎なのです。



今年の夏は伊豆半島の海水浴場を全制覇するつもりでいます。伊豆半島には海水浴場が40箇所以上あるらしいのですが、全部いけるんじゃないかなぁ。早朝は釣りをして10時ころから海水浴。このパターンが良いのではと。まあ魚はあまり釣れないのですが。




このブログも伊豆への移住後は釣りに関して書いていくんだろうなぁと思っていましたが、昨年は全く行きませんでした。元々釣りが好きだったのですが、なんとなく。ただなんとなく行かなかったという。



自分でも良くわからないのです。ちょっと面倒になってしまったという感じです。頭の中の計画では、野菜を育てて、魚を釣って、そんなことで食料を確保して、こんなイメージがあったのですが、この2点とも計画倒れでした。



でも今年はやります。釣りも野菜作りも。



こんなことを考えていると本当に元気が出てきます。でも一年中夏だったりすると、そのありがたさもわからなかったりするのかもしれませんね。四季があるって大切。



毎日淡々と過ごしていますが、少しはウキウキすることも考えております(笑)。


よし!魚を釣ろう!
干物もつくるぞぉ~。

はやく春よ来い!


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働かない生活は幸せなのか



2019年2月1日金曜日

「ねばならない思考」をやめてみる

「ねばならない思考」をやめてみる


今更ではありますが、僕は今、ねばならない思考をかなり手放してしまった生活をしております。ただそれでも100%全てを手放せたわけではなく、予定表には若干のスケジュールは存在しています。医者に行かねばならない、なんていうゆるい予約のようなものですが(笑)。




実は週に数日は働いてみようかと思ったこともあったのですが、「行かねばならない」というものを生活に取り込みたくなくて無職のまま現在に至っています。



50代でセミリタイアしてしまったわけなのですが、こういうのを単なるナマケモノとも言います。あはははっ。



ただ、まじめな話、うつ病で長いこと休職していた時のことを思い返してみると、この「ねばならない」感が非常に強固なもだったような気がしていて、それが回復の足を引っ張っていたのかと、今にして思っております。



早く復職しなければならないという焦り。切実な思い。いつしか脅迫観念へ。




でもこの時、苦しみに苦しみ抜いて、長いこと考え続けて、そしてそして、結果としてこんな答えを出しています。



別に復職しなくても良いんじゃないか。



なんという解を出してしまったことか...。ですよね。普通。



でもですね、そう決めた瞬間からこころがパーっと解放されていくことが分かったのですよ。物凄い重しを載せられていたのが、急にどけてもらえたような感じです。


「ねばならない思考」をやめてみる


身体がふぁ~っとなって、やはりこの思いが自分を苦しめていたのだとリアルに感じました。



その先の人生に何の計画もありませんでしたが、絶対に復職しなければならないのか?という問いに関してだけは明確な答えを自分の中で導き出せたのです。、



うつ病の治療中には大きな決断はしてはいけないということをよく聞きます。退職だとか離婚だとか、大きな買い物だとか、そういう決断は正常なメンタルを取り戻してからするべきだという考え方です。



でも、本当にそうなのかなぁと無責任ではありますが、今はこの考えに少し疑問を持っています。



そして、うつ病で苦しみ抜いている人は会社なんか一旦辞めちゃった方が良いのではないかと密かに思っていたりします。



人生においては「ねばならない」ことなんてひとつも無いと思うのです。お金が必要なのはもちろんなのですが、長い期間病状が回復しなければ障害年金を受給する手だって有効かもしれません。



僕自身は受給したことはないですが、月に数万円もらえれば、再起のための時間はなんとかなるような気がします。



そして体調が回復してきた暁には「働かねばならない」ではなくて「働こう」という方向に意識が変わってくるかもしれません。ただ自分自身には、まだそんな超前向きな意識の変革は訪れておりません。でもそれはそれで良いのです。




心や意識を苦しめている「ねばならない」という固定観念には大小様々なものがあると思います。その究極が働かなければならない、という視点。



大き過ぎるテーマですので、判断は各人にお任せします。



でも身近にある小さな「ねばならない」を排除していくことは、人生を楽しむために有効な手段であることは間違いないと思います。ガチガチに縛られている必要はないという気付きも時に必要だと思うのです。



そして小さな「ねばならない」を排除し続けていった先で、最後には何が残るのだろうか。そんなことを考えてみるのも楽しいかもしれません。



本当にやらねばならないことって何でしょうか



もっと自由に。今日もまた、軽やかに生きてみましょうかね。



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伊豆の別荘地の評判


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50代でセミリタイアしてしまった話


2019年1月30日水曜日

自然の中の田舎暮らし隠居生活

Bライフ田舎別荘暮らしブログ

自然の中の田舎暮らし隠居生活


このブログは元々自分のうつ病を綴り始めたものですが、いつの間にか会社の退職を決め、自然の中の田舎暮らしの隠居生活みたいな内容に変わってきてしまっています。




でも、こんなダラ~っとした働かない生活に興味を持ってくれる人がけっこういるということにちょっと嬉しさと驚きを感じています。



52歳で隠居を決め込んだのですが、突入してみて結構いいなぁというのが率直な感想です。年金がもらえるまでにはあと13年もあります。



ですので大手を振って隠居などと言ってもいられないのですが、お金を使わない生活に自分を慣らしてみると、なんか大丈夫そう。そんな感じがしています。



以前なら1年間くらいで消費していたお金で、今は3,4年間は普通に生きられそうです。




別に死にそうなほどに質素な生活をしているという感覚もないです。要は過去の僕の生活の8割くらいが、どお~でもよいことにお金を使っていたということなのだと思います。



この隠居生活ですが、年金のような定期的な安定収入が得られてから突入するべきだとは思いますが、半隠居のような形で月に数万円のアルバイトをして生活していくというのもありかと思います。



ただこんな生活が成り立つのも、快適な住処を手に入れられたからという点が大きいと思っています。小屋暮らしに憧れていたことがあったことは以前このブログにも書きましたが、やはり隠居というスタイルには向いていない、というか無理だと思います。



小屋暮らしはパワーのある若者向け。30代までじゃないでしょうか。




それに小屋暮らしは、そこに掛る初期費用が安いということでかなり安直にトライしてしまう人も多いと思うのですが、それでも土地代100万円、材料費50万円、製作期間に掛る諸経費30万円(半年間の交通費や食費、テント、その他もろもろ)。


結局200万円弱はかかると思います。



それで手に入るのは、風呂無し、トイレなしで6畳一間のスペース。そこに寝床、テーブル、キッチン。だから、多分、とても狭い



僕は一人で暮らしていくつもりなので、なるべく小さな2LDKの物件を探していました。部屋は二部屋あれば十分。



でも暮らしてみて思ったことですが、もっと広くてもいい。誰か泊まりに来た時にもうひと部屋あったらっと思い始めてます。



ですので、暖かくなったらルーフバルコニーの下の8畳ほどのスペースにもう一部屋増設するつもりです。DIYで。



こういうことを実行しようと思えるのも、この家に既に頑強な土台があるからです。長く暮らしていくには、少しずつ快適な環境にしていける、そんなベースも必要だと思うのです。



隠居というスタイルを取り込もうと思っている方には、別荘地の安い物件を探すことを強くおススメします。田舎の古民家なども良いとは思いますが、人間関係の当たり外れはかなり恐ろしいとも思います。 →田舎で村八分にあった友達の話



また別荘地の土地は80坪で30万円くらいで手にはいるかもしれません。隣に家が建っていなければ、その土地も購入可能か調べておけば、後々、敷地を広げていくこともできます。




なんならそこに小屋を建てても楽しいかもしれません。



まず、1,2年などという短いスパンではなく、10年,20年、自分がその土地で、その家で快適に暮らしていけそうか。こんな視点を持っておくことが隠居ライフを可能にする住処を見つけるためには役立つと思います。



Bライフ的にお金を掛けずに生活していくには若者なら自作の小屋でもOK。でも40代以上は無理。



ということで再度、別荘地を強くおススメしたいと思います。自然の中で暮らしているというこの感覚は何ものにも変えがたい気持ち良さがあります。



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2019年1月28日月曜日

暇を苦痛に感じる理由と対処法

Bライフ田舎別荘暮らしブログ

暇を苦痛に感じる理由と対処法

今、僕の24時間365日は全て自分の自由時間です。働かない生活を選んだわけなので当たり前のことなのですが、暇をこよなく愛している自分でさえ、本当に暇で暇でしょうがないと感じることも実はあります。




時には、その暇な状態を苦痛に感じてしまったりもします。でも実際にはやることは沢山あったりするわけなのです。


やることが沢山あるのに暇だと感じてしまう、この摩訶不思議な現象。最近になって、なんとなくこの理由が分かってきたような気がするのです。この現象はこんなことを考えている時に生じることが多いようだと。



「人生とは何か特別なことを成し遂げるべきものなのだ」



人生の使命感


実際の暇な状態と、それを暇と感じることの間には、いささかギャップがあるようなのです。


落ち着いていて、ゆったりと、のんびりと、特に何をしていなくても幸せな気分を満喫できることもあります。今はむしろこの状態の方が多いくらいです。





でも一度この「人生の使命感」のような概念が迷い込んで来ると自体は一変します。暇は恥ずかしいことだ、暇であることを許さん暇は悪なのだ....。



非常に興味深い現象です。



やるべきことは沢山あっても、それらは使命感を満たすようなものではないので暇の穴埋めにはならないという感覚。だからやるべきこともやらない。どうせなら全部終わってから、暇だぁ~っという感覚になってもらいたいものですが。



でも僕はこの感覚を少し客観視できるようにもなってきました。東京のアパートに住んでいたころは、ずっぽりとこの感覚にはまっていて、強い焦燥感、そして恐怖にすら感じていたように思います。



そこに落ちるか否かは紙一重なのかもしれません。人生の使命感というものを重視するか否か。



この使命感という感覚をぬぐってあげれば、すごくラクになります。そして今を今として満喫できるようにもなってくるようなのです。


暇を暇として楽しめる力。現代人に欠損している力ではないかと思われます。



定年退職をしたら


60歳、または65歳になれば多くの人はリタイアとなります。「人生が暇になるその時までに多くの趣味を持っておきましょう!」なんてことがしばしば推奨されますが、僕はちょっと違うなぁという感じがしているのです。



前述したように、「暇である状態」と「暇だと感じる状態」とは別ものだからです。



趣味をいくつか持っていても、暇だと感じてしまい焦燥感をぬぐえないこともあります。多くの人が定年後にこのことと対峙することになるはずなのです。


ですので、この記事のタイトルにした「暇を苦痛に感じる理由と対処法」ですが、それは決して趣味を見つけるなどというものではないのです。



人生の使命感のような得体の知れない概念とおさらばしてしまいましょう、ということです。



ここに引っ掛かっていると何年も何十年も自分の時間、自分の人生を楽しめなくなるかもしれません。非常にもったいないことです。


同じ一杯のコーヒーの味も全く別なものになるような気がします。




暇であることに苦痛や焦りを感じたら、何か目新しいこと、刺激のあること、そういう方向に目を向けるのではなくて


人生の使命感のような概念と決別してしまう方向へ向かう努力をすること。何か特別なことを成し遂げなくても良いのだということを真に理解すること。僕はそんな風に思っています。



仏教用語に「諦観」というものがあります。


諦(あきら)めて観るという文字の成り立ちですが、諦めるは「あからしめる」という意味で使われます。物事をあきらかにして観てみる。人生とはこうあるべきだという固定観念から一歩離れて観てみるということのようです。



ですので僕はこの諦観という言葉がとても好きです。




暇を苦痛に感じることがあれば、是非一度、こんなアプローチもしてみてください。きっと何かが変わると思います。


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自然の中の田舎暮らし隠居生活


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2019年1月26日土曜日

山奥スローライフの朝のスタイル

山奥スローライフの朝のスタイル


今朝の朝食はガーリックケチャップを塗ったトーストにソーセージとレタス、そしてスクランブルエッグ。


今朝、と書きましたが、山奥スローライフの朝食は完全にこのスタイルで固定されています。実に美味いのです。




マクドナルドやモスバーガーが実は大の好物なのですが、お値段がお高いのですよね。そこでどうにかお安くバーガー的な味になるものをと模索し続けてきたわけなのですが、行き着いた先がこれです。むしろバーガーよりも美味い。




そして最近タバスコに目覚めてしまいました。こいつをかけると、味のグレードがさらにUPし激ウマという領域に達します。



材料費は

パン 15円
ソーセージ 15円
ガーリックケチャップ 15円
タバスコ 5円
レタス 10円
タマゴ 10円

とざっくりですが、合計70円。まさにBライフ的な朝食。でも普通ですよね。たぶん外食しなければ誰でも朝食はこんなものだろうと思います。


そして10日間食べ続けても1ヶ月間食べ続けても、全く飽きないこの不思議。昼や夜に食べることはないですが、朝はもう完全にこれで固定。これ150円くらいで売ればバカ売れするんじゃないかと本気で思ってます。



ですので、是非、自宅で作ってみてください。ガーリックケチャップとタバスコが決め手です。



と、こんな朝食を頂いた後は、温蒸気グッツを肩に乗せて10分ほどソファでゴロゴロ。ツイッターを見ながら肩のコリをほぐしております。これも実に気持ちが良いのでおススメです。1,000円くらいと激安です。→温蒸気




そして調子が出てきたら、家の周りの掃除などをしております。したりしなかったり。



でも今日は天気予報を見てしっまって、夕方から雪が降るらしいという情報を耳に。しかたなく買出しに行ってきました。多分降らないと思いますが念のため。



自宅の山の麓から見る富士山はこんなに綺麗です。快晴快晴。雪なんて降るのかね。


灯油のストック

食料はけっこうあるので心配してないですが、灯油が切れそう。5缶のストックの内4缶がカラなので補充に行きました。僕のここでの生活で一番経費が掛っているのはおそらく灯油代だと思います。でもこれは冬季うつへの対策として必須なので全く気にしてません。



快適に過ごすために必要なお金は惜しむどころか、値段も全く気になりません。必要なのだから気にしてもしょうがない。



昨年も一昨年も冬の間は1ヶ月間以上寝込みました。これはただダラダラしているというだけの状態ではなく、手足の凍るような冷たさと共にひどい気分の落ち込みに支配されている状態です。冬季うつは本当に辛いものです。



それが、今年の冬はほとんど大丈夫。外出して体調を崩したときはありましたが、冬季うつだと自覚できるような症状は全く出てません。



だからもし大雪が降っても大丈夫。多分。



さて準備は万端。
これから午後の読書の時間に移ります。


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2019年1月25日金曜日

使い古したフライパンが好きなのだ

Bライフ田舎別荘暮らしブログ

使い古したフライパンが好きなのだ


田舎暮らしと称してこの山奥に移住してきてから、結構いろいろな物を購入してきています。東京のアパートに住んでいた時に使っていたものの大半は捨ててきてしまいました。


でも、このフライパン。テフロン加工が完全に剥げ落ちたただの鉄ナベと化したフライパン。こいつは何故かとても気に入っていて未だに使っているのです。




フライパンって高いものではないですよね。Bライフだからってそんな汚いの使うなよぉっと言われちゃいそうですが、火にかける物は自分で使い古したヤツが好きなのです。鉄の風格が出てくるというか、上手く表現できないですが、とにかく好きなのです。




ヤカンも魚用の網も古いものを使っています。これらはたぶんずっと使い続けます。



週に一回くらいは外食をすることもありますが、それ以外ほぼ100%自炊を楽しんで生きています。一食100円以内ということを意識していた時期もありましたが、今は何も考えてません。



ただ、肉類は賞味期限が近いものを3割引きで買っています。それを冷凍で保存。保存できないものは割引になっていても買いません。食べずに捨てることになるのが最もバカらしいと思っているからです。




パンも野菜も一週間に一回買出しにいくのが調度良いようです。そんな生活パターンも出来てきました。



出きるだけ美味しいものを自分で作って、テキトウに買い物をしても大した金額にならないということも分かってきて、今結構ラクです。


Bライフに囚われてガチガチに生きるよりも明らかに無駄となることさえやらなければ、想定の範囲で全て収まってしまいます。



今日は空心菜の炒め物を頂きました。




鉄ナベと化したフライパンにはこれからもまだまだ活躍してもらうつもりです。



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2019年1月23日水曜日

生きる価値がないとか無駄な存在だとか

生きる価値がない無駄な存在だと思ったら


うつ病などのメンタル疾患を負っていると自分は生きる価値がないとか無駄な存在とかそういったネガティブな思考に囚われてしまうことがよくあります。



僕自身も死にたいと思った事は何度も、何度もあります。だからそういう気持ちを否定はしません。長い人生の中では、あっても普通のことだとも思います。



でも、この世の中には生きていたくても生きられない人が沢山いるということは今一度考えてみる価値はあるのではないかと思えるようになってきました。



生きていたくても生きられない人がいる。そんなことは自分とは全く関係のないことだ。そう思うかもしれません。確かに全く関係ないことのようにも思います。




でも理屈や思考は一旦わきに置いておいて、是非、一度ここに記載する短い詩を読んでみてくれませんか。



人には言葉があります。そしてその言葉からその状況や感情、思い、いろいろなものを受け取れる力を持っています。11歳の幼い女の子が死の淵に立ちながら切実な思いを綴った詩です。何かを感じ取ることが出来るかもしれません。


"
『命のたいせつさ』

命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ

でも電池はいつか切れる
命もいつかなくなる

電池はすぐに取り換えられるけど
命はそう簡単には取り換えられない

何年も何年も
月日がたってやっと
神様から与えられるものだ

命がないと人間は生きられない
でも『命なんかいらない』と言って
命をむだにする人もいる

まだたくさん命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる

命は休むことなく
働いているのに

だから
私は命がつかれたと言うまで
せいいっぱい生きよう

"


11歳の短い生涯を終えた女の子


この女の子は5歳の時に神経芽細胞腫という小児がんの一種にかかりました。1998年6月28日に5年半に及ぶ病気と戦いの末、11歳の時に短い生涯を終えました。宮越由貴奈さんという女の子です。今はもういません。




自分の命は間違いなく自分のものです。しかしその大切さが、自分ではよくわからなくなってしまう時もあるとも思うのです。僕にも何度もそんな時がありました。



でもそんな時、改めてこの短い詩を読んでみて、自然に流れ落ちる大粒の涙と共に命の大切さに、はっと気付かされました。11歳の小さな女の子から生きることの大切さを教えられた瞬間です。



僕は何度も何度も読み返してみました。是非、何度も何度も読み返してみてください。どんな思いでこの詩を綴ったのかを、どんなに生きたかったかを、是非思い浮かべてみてください。



生きる価値がないとか無駄な存在だとか、そんな感覚になったとしても、そのことと命の大切さとは別なことのように思います。人にはそういう時がある、ということだけで、命の大切さはどんな時も変わるものではないと思うのです。



この女の子の言うとおり、命はいつかなくなるものです。



だから是非、その時が来るまで、せいいっぱい生きてみませんか。



生きる価値や無駄な存在というような思いへの答えは、理屈を捏ね回して得られるものではないのだと気付くことも大切かと思います。



何がが価値があって何かには価値が無い。何かは無駄ではなく何かは無駄である。



これってモノなのですよ。人のことではないのです。



だから価値ある人間というのも存在しないし、価値のない人間というのも存在しないのですよ。



悩んでいる時、辛い時、どんなことを言ってもしっくりこないということもわかります。僕もそんな時間を何年も過ごしてきました。



でも時間が和らげてくれることも確かです。紹介した詩から何かを感じ取れたら、それを小さな切っ掛けに、少しだけ前向きに、そして今という時間を生きてみませんか。



山奥の小さなボロい家に住み始めて、そんなことを少し考えられるようになりました。



自分には生きる価値がないとか無駄な存在だみたいな見方は捨ててしまいませんか。そんなもの、捨てしまいましょう。



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使い古したフライパンが好きなのだ


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