働かない生活は幸せなのか
何もせずにゴロゴロと、そしてダラダラと、そんな働かない生活に憧れて仕事を辞めてみたものの、時折襲い掛かってくる虚無感、虚しさの感覚。これを本当に幸せな姿と言えるのだろうか...。
そんなものに脳ミソが支配され病的な心理状態になってしまう。こういう人が結構多くいるということ、このことはかなり理解できたりします。
アクセクと働いていれば、例えふと虚無感に襲われたとしても多忙さがそのことを忘れさせてくたりします。
しかし特にやるべきこともなくボーっとした毎日を過ごしていると、脳みそはやがてその使い場所を求めはじめます。そして時折この虚無感と対峙すること選んでみたりもします。
この虚無的な感覚はいったい何なのか。生きていてなんの意味があるというのか。こんな無限ループ的な思考の罠。
おそらく人のとる行動の多くはこの虚無感に由来しているのではないかと、そう思います。
無駄な消費も虚無感を覆い隠すため。アクセク動いているのもおそらくそう。そうしていないと虚しさについて真剣に考えてしまうからのように思います。
この虚無感自体は突然湧き出てくるという類のものではなくて、実は常にそこにあるのではないでしょうか。そのことに意識が向くか否かの違いだけなのかもしれません。
禅寺での修行
禅寺で修行をするお坊さんには作務と称して一日中何かしらの作業が強いられます。座禅の時以外は常に何かをしている状態が作り出されているわけなのですが、余計なことを考えさせない為というのが理由のひとつではないかと思います。
一心不乱に今ここ。そういう修行です。
欲や思念を振り払うため。そして多分、その中に虚無感も含まれている気がします。こんな修行を続けていてなんの意味があるのか。そんな風に虚しさに倒されないため。
と、いうことで「いったいなんのために」という根源的な疑念が振り払えない限りは、人は一生この虚しさに同居を許すことになるのかもしれません。
働こうが働かない生活をしていようが根本はかわりません。忙しさでそこに意識が向く時間が多いか少ないかの違いだけ。
と、ここまで書いてきて、このブログを読まれている方は、おそらく僕自身もこの虚無感に打ちのめされているのではと思われたかと思います。
しかし、僕はもういろいろと諦めてしまったのです。以前に「諦観」という言葉が好きだということを書いたのですが、いろいろと諦めてみると、「なんのために」という思考もかなり減っていきます。
50代前半にして隠居などという言葉を使っているのもそんな意味からです。自分自身が虚無そのものなので虚無感に襲われて苦しむことも少なくなってきたのではないかと思っています。
ものごとにあまり意味を求めない。
おそらくこれがひとつの答えのような気がします。