どんな人生であれ結局、人生は自己満足
どんな人生であれ結局、人生は自己満足なのだという話をよく聞きます。僕自身も強くそう思います。自分が100点だと思えば100点。誰かに採点してもらうものではないはずです。
ただ他人を満足させることが自分の満足になるという人も多いはずです。ですので自己満足とは、単に利己的に生きましょうということとも、少し違うのかもしれません。
一般には、湧き出てきた欲求を満たすことが満足と定義されるかもしれません。このことを否定するつもりありませんし、全ての欲求を抑え込んだ仙人のような生き方が良いとも思ってはいません。
でも、ひとつだけ、この満足に対してよく理解しておいた方がよい点を、僕なりの見解ですが紹介しておこうと思います。
それは依存ということ。欲求と依存との境界線は当人にとっては非常に不鮮明です。例えばお金を使わない生き方を僕は実践していますが、もしギャンブルに依存していたら絶対に無理なことです。
たいして好きでもなかった、でも、ちょっとした切っ掛け、そんなことでのめり込んでしまう依存状態持っていたら、何が自分の真の欲求か、本当にわからなくなると思うのです。
依存に関してはいろいろな解釈があろうかとは思いますが、明確に言えることは、繰り返し行うことが、いつしか日常となってしまうということ。
であれば、続ければ自分のプラスになるであろうことを続けた方が良いと理解できるはずです。だから働かないよりは働いた方が良いとも言えます。プラスになるのであれば。
マイナス方向に寄与するであろう対象に依存しても満足は絶対に得られないと僕はそう思います。。
コツコツと続ける満足
今、かなり古い中古の別荘で暮らしていますが、ダラダラ生活のなかにあっても、DIYをコツコツと続けております。木材やセメントを扱うのは普通に考えたら、とても面倒なことです。でも2年間続けてきたら、家の外観も内装も、ものすごく良くなってきて、今はDIYにある種の依存を感じてます。
ダラダラ人間の自分が言うのもおこがましいとは思うのですが、満足とは、やりたいことというより、やり続けたこと、に感じやすいのではないでしょうかね。これはひとつの結論。
幼少のころの夏休み
一方で幼少のころの夏休みや学生のころバイクで自由奔放に放浪していた時期のような感覚を最近、たまにではあるのですが、そんな懐かしい感覚も思い出すようになりました。この山奥で寝て起きて、食べて、畑を作って、自生している植物を採取して、そんなものも食べてみて、そしてたまに海などへドライブに行ってみたりして...。これもまた完全なる自己満足の世界。
そんなテキトー極まりない生活の中にあるわけなのですが、こんな生活の中に何十年も前に感じたことのある、ホワーっとした気持ちの良い感覚がオーバーラップする時があります。
「もっともっと」というような感覚がどこかに置き去りにされているような感じなのです。だから実に気持ちがいい。
山奥での生活にもその内に飽がくるのではないかと危惧していたこともあったのですが、何故か日を追うごとに、これ良いなぁ~という思いが強くなってきたりもします。
自分でも不思議な感覚なのですが、今が一番良いという脱出不能な状態になっているような感じです。誰に自慢するわけでもなく、自分が心地良い。そういうのが一番危険かもなのですが(笑)。
前回、うつ病から山奥へ移住して一年、にも書いたのですが、悩み事や不安なことのない時間の中にあると、何か自分を誇示して文字にしてみたり、文字にするために何かをやってみたりということも、かなり減ってきたりもします。
そのことがこのブログの更新頻度の低さに出てしまっているのは申し訳ないことではあるのですが、多分これは真理ではないかとも思います。
心静かに座ってみる
瞑想的なものはあまり得意ではないのですが、目をつぶって自然の音を聴いているだけというのもすごくしっくりとくるようになってしまいました。もうこれは死期が近いのかもしれません(笑)。でも人生が80年あるとすれば、僕の場合まだあと30年くらいあったりもします。しかし、おそらくは、こんなことをしている内にあっと言う間にそんな時間も過ぎていってしまうのではないでしょうかね。
それに、これは少し声を大にして言いたいことなのですが、老後とか人生100年とか、そういうのあまりい深く考える必要ないんじゃないでしょうか。人生って常に今だと思うのですよ。
これは今を楽しみましょうとか、今を生きましょうとか、そういうポジティブな提言とは少し違うのですが、今、若者である人もいて、今、中年である人もいて、今、老人である人もいるということだけのことです。
それぞれが今を生きているだけ。そういうことじゃないかと思うのです。働かない生き方を続けていくならば、蓄えは必要かもしれません。でも余計な心配はあまり意味がない。どうせ何歳になっても常に今を生きるのですから。
争ったり闘ったり
闘ったり争ったり、無駄に溜め込んでみたり、そういうことを今までは、おそらく面白いことだと思っていた人間です。会社員時代には闘争本能をむき出しにして自分自身をも酷使もしてきました。そういう時期は人間には必要なのだと今もそう思っています。
闘うこと争うこと、奪い取ること、そういう欲求が経済をまわして社会を進化させる動力源になっていることは疑いのない事実。仕方のないことだとも感じます。
でも、それって社会のためであって、実は自分の為ではないような気もするのです。
人の中に埋め込まれている本能的な部分の大半は人類の為のものなんじゃないのかなぁ。自分の為だと思って欲を振りかざして競い合っていることは、実のところ大して自分の為ではなかったりするのですよ。
まぁこんなことを考えるのは自分がジイさんになった証拠でもあるような気がしますが。
でもこのことに気が付くとかなりラクになるのは確かだとも思います。
山奥には今日もそんな事を考えている人間が一人おります。
人生は自己満足。どんな形で満足するのかは人それぞれなのですが、働かないで生きる、こんな生き方もあるんだといことを紹介させて頂きました。
みなさん良い休日を。
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ブログのタイトルをshigeに変更しました
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